8日間のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想に与かった方の体験談(その2)

(各々の方の体験談の一部のみを紹介しています。)

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(修道女)

こ の時期にヴィパッサナー瞑想に参加できましたことは神様の計り知れない大きなお恵みであり、神様の大きな手の中に包まれて生かされているということを実感 いたしました。と申しますのは黙想中にも分かち合いましたように、人間のエゴが人の命をも殺してしまうという恐ろしい体験の直後に黙想にあずかりました。 ヴィパッサナー瞑想では「感覚そのもの」に取り組み、「感覚に気づく」ことが大切です。「感覚」は空想でも思考でもなくリアルであり、エゴがない。

そこでどうすればエゴを突破できるのか、といえば「感覚に目覚め続けること」である、という神父様の講話と毎日5時間座って「感覚に目覚める」修行が目から鱗が落ちる体験になりました。どうすればエゴを突破できるのか、という私自身の課題に直面出来る方法を学びました。

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(信徒女性)

最も苦しんだのは60分 身動きせずに座り続けたことです。足がしびれ、ジンジンして痛みは耐え難いほどでした。「覚悟は定まりましたか?」との励ましを胸に、痛みを感じるたびに 留まっているところに意識を集中し呼吸し続けました。すると不思議なことに痛み続けている足はそのままなのですが、落ち着いた心でそれを眺めているのに気 が付き本当に驚きました。4日目の夕方の瞑想に於いてです。呼吸に意識を向けることで、「今、ここに」生きることを努力するのですが、それをしていたのです。

人 間は痛みの中でも自分を観察することができるのです。そして、本当の識別は柳田神父さまが「根源意識」と名付ける「真の自己」つまり「アガぺの愛の場」に おいてのみ可能だということです。痛みは現実のものであり、私が痛んでいることに気づくことは真の自己に出会うことだそうです。そのとき存在そのものであ る神(出エジプト3,14)と響きあいます。実際、瞑想の終わりを告げる錀がなるときその音の波と私自身が同じように響くのを感じました。

(修道女)

こ の時期にヴィパッサナー瞑想に参加できましたことは神様の計り知れない大きなお恵みであり、神様の大きな手の中に包まれて生かされているということを実感 いたしました。と申しますのは黙想中にも分かち合いましたように、人間のエゴが人の命をも殺してしまうという恐ろしい体験の直後に黙想にあずかりました。 ヴィパッサナー瞑想では「感覚そのもの」に取り組み、「感覚に気づく」ことが大切です。「感覚」は空想でも思考でもなくリアルであり、エゴがない。

そこでどうすればエゴを突破できるのか、といえば「感覚に目覚め続けること」である、という神父様の講話と毎日5時間座って「感覚に目覚める」修行が目から鱗が落ちる体験になりました。どうすればエゴを突破できるのか、という私自身の課題に直面出来る方法を学びました。

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(信徒女性)

最も苦しんだのは60分 身動きせずに座り続けたことです。足がしびれ、ジンジンして痛みは耐え難いほどでした。「覚悟は定まりましたか?」との励ましを胸に、痛みを感じるたびに 留まっているところに意識を集中し呼吸し続けました。すると不思議なことに痛み続けている足はそのままなのですが、落ち着いた心でそれを眺めているのに気 が付き本当に驚きました。4日目の夕方の瞑想に於いてです。呼吸に意識を向けることで、「今、ここに」生きることを努力するのですが、それをしていたのです。

人 間は痛みの中でも自分を観察することができるのです。そして、本当の識別は柳田神父さまが「根源意識」と名付ける「真の自己」つまり「アガぺの愛の場」に おいてのみ可能だということです。痛みは現実のものであり、私が痛んでいることに気づくことは真の自己に出会うことだそうです。そのとき存在そのものであ る神(出エジプト3,14)と響きあいます。実際、瞑想の終わりを告げる錀がなるときその音の波と私自身が同じように響くのを感じました。

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毎 日ミサがあり、その日の福音と修行の内容について触れながら、説教があります。「今、ここ」に働く神の国に目覚めて生きよ、という教えは「何よりもまず、 神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6,33)」というみ言葉によくまとまっています。私はイグナチ オの霊操に参加するとき真剣に祈ると頭が非常に疲れてしまい、体調を崩すこともあるのですが、ヴィパッサナー瞑想は体を使った祈りですので、疲れるのは体 だけで、頭や心はすっきりします。この点は東洋のクリスチャンである私たちが、知性を主に使って祈る方々に対して貢献できる分野ではないかと感じました。

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(修道女)

初 めての瞑想参加でしたが、静寂の内にゆとりを持って気づきに意識を向ける訓練ができました事感謝でございます。主の御心を深く悟為には日々の気づき〝今こ こで〟がこれほど大切であること、心と体の一体化、今ここで与えられた事物との調和(大きすぎる座布と和解して、どのような座り方をしたら足が痛まない で、1時間座ることができるか?など)は、工夫次 第でどのようにもなることに気づかされました。

最終日の帰りにヴィバッサナ-瞑想を実践する機会に恵まれましたので、一筆認めさせて頂きます。

修 道院前の歩道で、日ごろ快く思わない姉妹と遭遇。100m先に彼女の姿を見かけたので、瞑想を実践するよい機会と捉え、歩行瞑想、をしながら近づいていっ た。擦違う時、こちらから「今日は!」と声を掛けたところ相手も驚いて「どうしたの」と聞き返して足を止めたので、私も足を止め、黙想の帰りであること、 母の介護状況など姉妹が尋ねることに対して、素直に答えしばし話した後別れました。
会話を通してお互いにしこりが取れていくのを感じました。

朝 慈悲の瞑想にて彼女との和解を願い、主が慈しみを注いで下さるように祈りました。

主は、わたしの貧しい祈りを聴きいれ、時と場を作って下さったことに気づきました。

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(信徒女性)

時間的、内容的に密度の非常に濃いものでした。
参加前、もっと深く味わい、それを日常化する基礎を固めるには一度、今いる日常から離れてそこに浸かる必要を感じていました。
ある程度覚悟をして参加した積りでしたし、実際ある日々まではかなり集中できたと思っていましたが、帰る日、それは社会に出て行く(働きに行く)日々が近づくにつれ、瞑想中に脳の独り言が多くなり集中力が途切れるのには参ったというのが正直なところでした。
神父様の講話は繰り返し繰り返し語られる言葉、そのことは「やはりそうなのか」という思いを深くし聖書の神髄の一つであろうそのことは、日常の生活に戻った今もそして多分これからも私の中に育つものと思います。

3 つのグループに分かれてのわかちあいと神父様のフィードバック。これは京都や流山のヴィパッサナーセンターにはないもののようで、流山に参加した友人から は羨ましがられました。神様に結ばれた私達はここでのいただいたお恵みをわかちあい、神様に結ばれた「自分以外の人を知る」ということも大事なことでし た。
ただ、グループの入れ替えがあってもよかったかも知れないとも思います。

自己肯定感の極端に低い私は、これまでいろいろな方法によってそれを上げることを目指してきました。サダナを通じてヴィパッサナーへ導かれ、その神髄へ近づくことができるか賭けてみたい気持ちです。

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(信徒女性)

私の激しい思い込みから強い恐怖感を創り出してしまいましたが、恐怖を”感じる人”から恐怖を”観る人”になることによってエゴと真の自己を切り離してみることが出来、恐怖感を乗り越えることができました。これはとても私にとって良い気づきになりました。

観 る瞑想は私にとって一番よくわかりました!小さいアリの群れが木の幹を往復しているところを始めに見た時はゾッとして爪の跡が掌に残るほど体が凍りつきま したが、快・不快を除いてありのままの”もの”として見ていくうちに段々と平気になってきました。最後は体もリラックスしてマジマジと見ても大丈夫になっ ていたのでとてもびっくりしました。虫が大の苦手な私にはこれから観る瞑想の題材は沢山ありそうです!?

食事中、噛む時の音や感触を意識して食べていたら沢山の発見がありました。今まで全然意識せずにただ食べていたのでこれからも食べていることに意識してみようと思いました。

瞑想も毎日少しでも意識してやってみようと思います。

本当に素晴らしい出会いが沢山あり、皆さんと8日間過ごせてとても光栄でした。

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