8日間のキリスト教的ヴィパッサナー瞑想に与かった方の体験談(その1)

(各々の方の体験談の一部のみを紹介しています。)

(信徒男性)

スケジュールは、毎日、1時間位の講話と1回1時間の瞑想(静座)を5回行う(計5時間)という予想したものよりも、かなりハードなものでしたが、その分、得るものは大で、多くの「気づき」を頂きました。

その瞑想の実際的な効果については、8日間を終えて、帰る途中で、自分のからだが正直に教えてくれました。9日目の朝、修道院を出て、朝のラッシュ時の満員電車に乗って帰る途中、普段は、電車の中での押し合いへし合いの中で感じるストレスを殆ど感じていない自分にまず驚きました。今までならば、そういう極めて不愉快な環境に身を置いた場合に、自分の心の中に湧き起ってくる、他の乗客に対する怒りや否定的な感情に無条件に身を委ねることが多かった自分に代わって、その種の感情に、いち早く気づきを覚え、自分の心の動きを冷静に眺めることで、殆どストレスを感じていない自分を発見したのです。

これは、驚きでした。呼吸の気づき、から始まって、身体(表面感覚、内面感覚)の気づきや、音を音として聞く瞑想などをこの8日間に集中して行ってきた効果が、この現実生活の中で、こんなにも端的な形で経験出来るとは、本当に意外でした。

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今までも、何度かこの種の黙想会には参加させて頂きましたが、黙想会そのものは素晴らしく、心の面(感情面)でも、多くの感動的な経験をさせて頂いても、いざ黙想会を終えて、実際の生活に戻ると、その黙想会での貴重な経験を生かせない、という憾みがありました。そういう意味では、このヴィパッサナー瞑想がもたらす現実生活への効果(変化)は、顕著なものがあります。それは、この瞑想が、単に頭や心ではなく、からだそのものの感じ取りの変化を目指しているからだと思います。

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(修道女)

この8日間の瞑想体験は、私にとって「たからもの」を見つけた、そして頂いた、そんな感じです。その「たからもの」は、実はこんなに身近に、そして自分のうちにあるんだということ。

「呼吸を探察する、感覚を観察して気付いていく」ことが自体が、自分をとらわれから少しずつ解放していく。それは、神様の愛、イエス様の存在そのものなんだ〜と、どう表現すればいいかがうまく見つかりませんが・・・。私が見つけた「たからもの」と表現したのは神様の愛そのものなんだと、修道院に帰ってきて1日たって、もっとはっきり気付き始めています。神父様が講話の時お話ししてくださったことが、分かり始めたようなそんな感じです。

一瞬、「えっ、厳しい!」と思った時間割も、実はとっても良かったと感じています。時間割と、神父様のご指導に従って瞑想を体験していく中、「離脱」についても新たな発見がありました。覚悟を決めれば、案外がんばれるということが体験できて嬉しかったし、また、どこか痒いとすぐにパニックになる癖が改善されたことも不思議でした。

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(信徒男性)

黙想会が終わり3日目ですが、本当に黙想会で新しくされて、この世に派遣されて出てきたみたいな感覚です。

黙想会が終わり、西武線で新宿の雑踏に出ると、さっそく次々と荒波が襲ってきました。
スマホを見ながら私にぶつかってくる人。 イヤホンから漏れてくる騒々しい音楽。 (新宿で献血ルームに立ち寄ったのですが、日赤のコンピュータシステムに不具合があり)、受付で1時間も待つことになり、イラッと。その度ごとに、呼吸へと戻る。心の波は静まり、大海へと還ってゆく。

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 (修道女)

最終日、“慈悲の祈り”のプログラムで、神と響きあいながら心を一杯にして自分と他の人のために祈っている時、ずぅと昔の考えたくない人が心の中にあらわれましたが、それでも、心を一杯にしてその人のために祈るという大きなお恵みを頂きました。これで関わりが修復したとは感じていませんが、このヴィパッサナー瞑想をこれからも続けていくことで、神の無償の愛によって自分自身も“ゆるし”へ解き放たれていく日が来ると感じています。祈りにおいても成長できるよう、信仰に基づく修行・ヴィパッサナー瞑想を、日々の生活の中で続けて行きます。

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(信徒女性)

「黙想会で、単に祈りに親しむというということではなく、霊的な生活を身につけたい。直接的な神さまとの関わりをもっと密接にし、祈りを深めていきたい!」た またまヨガを習い始めていた自分でしたが、正直に言って、キリスト教にヴィパッサナー瞑想という東洋的な手法に違和感がありました。

ところが、プログラム初日に、「心は神を求めていますが、身体は既に知っているのです」「人が必要な恵みは既に100%あなたに与えられています。それに気づいていないだけなのです。」という神父さまの言葉が、この瞑想法へ挑む私の背中をぐいっと押したのです。 手渡されたテーマの言葉は「気づき」でした。

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今、 8日間の修行を終えてみて、この手法が東洋のものだという認識は影をひそめました。 宗教や地域を超えた絶対的な価値を見たからです。 自分の思考からエ ゴを分離し、思考を導く前の、感覚のみを抽出して観察する。 もしくは感覚がエゴを通して思考に変化する直前に断ち切るという訓練を、精神的にも肉体的に 自分を追い込みながら、繰り返し繰り返し行うというものは、ちょっと体育会系の印象もありましたが、体力のない方、障害のある方でも十分に習得できるとい う懐の深さにも感銘を受けました。 訓練の結果、全ての事象を純粋にあるがままに、分け隔てなく受け入れるということも自分なりに到達出来たと思います。

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